「ある小都市での一事」

 

1,ある小都市の群像

ヴェルフ=コールマンにとって、幾度目の旅路であったのだろうか
最早記憶を辿ったところで、それを思い出すことは不可能に違いない
二人の供を連れて、ヴェルフは雪の積もった山道を歩き、海を目指していた。
二人は女の子で、その内一人は十四歳ほどであろうか
彼女はベージュの毛皮に身を包んで革靴を履き、茶色のマフラーで首を覆っている
クリーム色の髪を短くまとめた、なかなかに可愛い女の子である、数年後はさぞ美しくなるだろう
もう一人は紅い髪で赤茶けた毛皮を着た五歳ぐらいの女の子で、無口で冷たい印象を受ける
子供である
クリーム色の髪をした女の子はフォロア=ウォルフという名で、もう一人はメル=クライドル
と言う
名前から判る通り、二人ともヴェルフの子ではない
メルは死に瀕したヴェルフの友人から預けられた子で、フォロアはヴェルフの弟子である
二人ともヴェルフには良くなついていて、文句も言わずに何時もヴェルフの後をついてくる
今回も例外ではなく、二人はこの寒空の下、ヴェルフに従って自分の意志でついてきていた
雪を踏む音が響く、森の中の静寂にはその音も大きかった
この辺りの厳しい寒さの中では、雪中にて活発に活動する生物はごく一部の哺乳類に限られてくる
例えば狼や野犬などであるが、彼らは飽くまで少数派に過ぎないのだ。
ヴェルフは空を仰いだ
鬱蒼と茂っていたであろう森も、既に雪に覆われ尽くし、生命の緑は感じられなかった
それでも、寒くはあってもこの辺りの降雪量は少ないと言える
そうでなければ、この辺りを徒歩で、ましては馬などが歩くことは不可能であったろう
しかし愚痴になるが、寒さは豪雪地帯以上であった
毛皮を羽織っていても、寒さは容赦なく身に響きわたる
「あったかい、スープが飲みたいですね」
身震いし、フォロアが呟くと、ヴェルフは何も言わずに歩調を速めた
フォロアはヴェルフと馬を挟んで向かい側を歩いていたが、ヴェルフの側に歩きよって続けた
「私、あったかければ何でもいいです」
ヴェルフの足が止まった、峠の頂上に来たのだ
雪に覆われた森、正に樹海と称するに相応しい、暗く白い冷たい海
その海の海岸線が、眼下に広がっていた
「街だ。 スープ位になら、多分ありつけるぞ」
ヴェルフはフォロアの頭に手を置き、馬に乗ったメルに笑顔を向けた
「日中に着けて良かったです」
フォロアが手袋を着けた手で、嬉しそうに口を覆った。

レムリアード、それがこの小さな街の名である
この辺りの街らしく、周囲は堅固そうな城壁で覆われ、中央には領主の屋敷らしい大きな家
そしてその脇には、鐘を備えた教会が見える
周囲の城壁は、アジア系異民族との抗争が絶えなかった時代の名残であり
現在では他国との戦争に効果を発揮するのである
周りには耕作地が広がっている、人口が増えて城壁内だけでは食料を確保できないのであろう
人口は現在897人。 その全てがキリスト教徒であり、土着の宗教は完全に抹殺されている
閉鎖的で排他的な、典型的ムラ社会であると言えよう。
街の門は、東と北に備え付けられていた
南と西は堀にしている川の幅が広く、わざわざ付ける必要性を領主が認めなかった物と思われた
東門は閉ざされていたが、北門は開いていた
理由は簡単にして一目瞭然である、外には街に土地を持てない貧民の住居が広がっているのだ
壁はレンガとも呼べない粗末な土くれで、屋根も充分でない
これでは、毎冬ごとに死人が幾人もでるに違いない
彼らも一応の労働力であるから、日中は門を開けておくのであろう
旅人は、ましてやこんな冬空には珍しいらしく、ヴェルフは門番に咎められた
ヴェルフの髪は黒髪である、この辺りでは少数派であり、門番の注意を引く一因であったと言える
面倒くさそうにヴェルフは通行許可証を出し、広げて見せた
「職業は?」
許可証を眺めながら、胡散臭そうな視線でヴェルフを刺しながら門番は言う
「弁護士だよ、これが証拠だ」
弁護士という職業は、最近出来始めた職業であり、歴史は百年ほどしかない
その仕事は裁判で被告を弁護し、その主張を万人に示す事であるが
まだ人権という概念はなく、あくまで裁判の公平さという有りもしない物を、民衆に示す物に過ぎない
ヴェルフが懐から取りだした証紙はまだ新しく、日光をあびてテカテカと光った
それであるから門番の視線は冷ややかであり、軽蔑に満ちていた
目の前のこの男はどう見ても四十より若くは見えない、そんな年になって弁護士
しかも成り立てであるとは、この男がろくな人物でないと教えているような物であったからである
「こんな寒空を子供連れでご苦労様、ヴェルフ=コールマン弁護士先生。 レムリアードへようこそ
宿屋は真っ直ぐ行って、教会につきあたったら左の路地に入って、そこの突き当たりを右だ」
先生、という言葉は軽蔑を固化させた物であったが、ヴェルフは全く気にせず
二人を促して街に入っていった。

不潔で、豚の多い街であった
この辺りの習慣である、下水道という物は元々存在せず、汚物は窓から道にぶちまけるのが常識だ
そもそも蝙蝠傘はこの汚物避けに作り出されたのである
そして、それの処理をするのが、街中に放し飼いにされた豚達の役目だ
豚はそれを餌に生き、太った所を料理されて肉屋の店頭に登るのだ
一見合理的に見えるが、完全に衛生観念が欠如しており
黒死病の大流行で、六割以上の人命が失われた原因もそこにある。
豚は毛深く、現在の豚より猪にむしろ近く、性格も獰猛である
道に寝ころぶ貧民が襲われることなど珍しくもないし、目を離した隙に赤子が餌になった実例すらある
「きゃん!」
フォロアが悲鳴を上げて右足を振ると、豚が飛びずさった、そしてキイキイ声をあげて逃げていく
ヴェルフは振り向きすらしない
「ぼんやりしているからそう言うことになる」
「靴が・・・ああ・・・」
ぼんやり周りを見ていたフォロアの革靴に、餌を求めていた豚が食いついたのである
革靴のかかと辺りが噛まれていた、穴は開いていないが、直さないとじきに開くだろう
心底辛そうにフォロアは溜息をついた、物があまった時代では靴の一足などどうでも好いことだが
しかしこの時代、革靴はそうそう手に入らない高級品である
フォロアは貧家の生まれであり、物の価値を正確に理解していたから、これは辛かった
「おい、フォロア!」
ヴェルフが振り向き、鋭く言う。 フォロアは直ぐにその意味を悟り、いそいでその場を駆け去る
一瞬置いて汚物がぶちまけられ、豚が群がって餌を漁り始めた
フォロアは胸をなで下ろし、感謝の言葉を言おうとしたが、ヴェルフはすでにかなたへ歩き去っていた
目の前に教会が見えてきた、他の家とは比較にならない高価な素材で創られ
幾人かの見習い神官が、掃除し、掃き清めている
ヴェルフは屋根の上に光る十字架を見て、心中で嘲笑った
偶像崇拝を禁止し、他の宗教の神を例外なく魔神と軽蔑し、そして存在すら認めず破壊し尽くす
好戦的で、自己中心主義で、自己のみを正義と言い張る、不寛容を民衆に植え付けた宗教のシンボル
それでありながら、あの十字には宗教の開祖が奉られ、崇拝されているのである
これは偶像崇拝ではないのか? 宗教などと言う物は皆下らない妄想であるが
民衆は何故そんな単純な矛盾にも気付かないのであろうか、とヴェルフは歩きながら考えていた
両ポケットに手を入れていたヴェルフは、ふと思い出して左ポケットを探り、後ろを見た
極めて機能的に並ぶ民家の間を、フォロアがこちらに駆けてくる、積み木の間を駆ける小人の様に
ポケットから鍵を取り出すと、ヴェルフは左の路地に入っていく
馬に乗ったメルが続き、そして走ってフォロアが追いついてきた
ヴェルフは鍵を使ってサーベルを荷物から外し、フォロアに手渡し言った
「背中にしょっとけ、危険があるかもしれんぞ」
フォロアの表情が緊張にこわばった、元来ぼんやりしがちな性格ではあったが
剣を持てば緊張を持続できたし、その腕前も一流と言い切って良い物であった
歩いて行く三人の後ろで、教会の鐘が三度鳴る
嘘で塗り固めた聖なる響きが街に広がり、住民は夕方の到来を知った

2,虚栄の柱

程なくヴェルフ一行は宿に着いた、宿と言っても旅人は多くないので、農業を兼業せねば生活できない
家の右半分は厩ならぬ畜舎となっており、馬はそこへ預けられた
家の主人は人の良さそうな老夫婦で、ひさかたの客であるヴェルフ達を快く歓待してくれた
スープにありつけてフォロアは幸せであった、無心に温かい食物を啜っていた
無口なメルは相変わらず静かに急ぐでもなく、だが延々とスプーンを、口と皿の間を往復させている
ヴェルフは椅子にもたれ掛かり、窓から外を見ていた
窓の外は入ってきた入り口と丁度逆側の位置に当たり、広場になっていて、教会表門の正面であった
「ヴェルフ様?」
フォロアが木製のスプーンを止めて、怪訝そうにヴェルフを見つめる
ヴェルフは殆どスープに手を着けて居らず、ただ外の光景を眺めていた
広場に人が集まり始めている、スープを平らげていたメルも、外に視線を固定していた
安物のガラスで透明度は低いが、それでも何かの儀式の様な物が準備されていくのは判った
「魔女裁判でさ」
老夫が言うと、ヴェルフはテーブルに頬杖を突き、スプーンをスープに突っ込んでかき回した
「いつ始まるのかな」
「明日の正午でさ・・・あんた、あんな物に興味があるのかね」
老夫は老婦と顔を見合わせ、溜息をつく、彼らは魔女裁判の真実を知っているのかも知れない
「ワシの職は弁護士だからな、どれ、少々掛け合ってくるか
フォロア、ついてこい」
ヴェルフは席を立ち、まだ温かい皿をメルの方へ押しやった、遠慮なくそれをいただき始めるメル
「すぐ戻る。 ワシの飯、もう一皿分用意して置いてくれ」
ヴェルフはフォロアを連れ、裏口から宿を出た
老夫婦が戸惑いの視線を交わし合う中、メルは何事もないようにスープを平らげた。

広場では、いかにも金のかかった絹服を着た神父が見習達を働かせ、裁判の準備を整えていた
その脇には、まだ若いが脂ぎっていかにも愚かそうな男がいて
下卑びた笑いを浮かべつつ、何か神父と話し込んでいた
兵士が何人か護衛についている所を見ると、おそらく領主の息子か何かであろう
神父が近づいてくるヴェルフに気付き、会話は中断した
「何者だ、お前は」
「ワシは国王陛下の任命を受けた弁護士だ、ここで裁判があると聞いてな
旅費の足しにと思って、罪人の弁護を引き受けようと思ったのだ」
「んだテメエは、さっさと消えろ」
兵士の一人がすごんだ、兵士と言うよりもゴロツキと言う言葉を墨字で半紙に書き
額縁に入れて、壁に飾ったような男であった
ヴェルフは端にも掛けず、神父に身分証を突きつける
神父と脂ぎった男は顔を見合わせた、それは間違いなく本物であったからだ
証紙が本物である以上、この男を邪険に扱うことは出来ない
「消えろってんのが・・・」
ヴェルフの肩を掴もうとした兵士の動きが凍り付いた、喉元にサーベルが突きつけられていたのだ
正しく目にも留まらぬ早業であり、しかも剣先は微動だにしない、一流の剣士の証拠である
刃を辿った視線の先には、クリーム色の髪を短く纏めた、まだ年端も行かない女の子の顔があった
只、その身体には微塵の隙もなく、兵士は全く動くことさえ出来なかった
「おい、フォロア、その辺で勘弁してやれ
では罪人に会わせてもらおうかな」
フォロアは剣を納め、同時に兵士が地面にへたり込む
脂ぎった男は舌打ちすると、何か下品な言葉をがなり立て、屋敷の方へ帰っていった
途中で、追いついてきたさっきの兵士を殴り倒す。 余程腹が立ったのだろう 
兵士は立ち上がるとヴェルフを殺気を込めて睨んだが、ヴェルフは相手にもしない
神父も同じように舌打ちすると、ヴェルフを教会の地下へ案内した
ヴェルフは皮肉っぽく口の端をつり上げた
どうやら、ヴェルフは彼らの想定していた茶番劇に水を差した様であったから
で或る以上、トラブルは避けられない、だがそれはメルの為にも望む所であった

地下は湿っていて、表よりも更に冷え込んでおり、その中で最も冷たい部屋に被告は居た
ぼろを着せられた、まだ二十歳は越していないであろう娘であった
長く紅い髪は、かっては艶やかであったろうが、今では無惨に埃にまみれている
神父は二人に、娘の名がライザ=クロイツェンと紹介した
「自白はしたのかな?」
「・・・まだだ、なかなか強情な魔女でな」
ヴェルフは心中悪態をつく、本物の魔法を使える魔女が、貴様らごとき
砂上の楼閣に等しい権威を振り回すだけの低能に捕まるか、と
娘は眠り込んでいると言うより、半ば気を失っている様であった
ぼろの下から痩せた右手が出ていたが、明らかな鞭の跡が青黒い痣となり、蔓のように絡みついていた
間違いなく、さっきまで拷問を重ねられていたのだろう、それで「自白」しなかったのだ
大した精神力だと言えるし、ヴェルフに勝機をもたらす鍵にもなる
それにしても、いつからこの組織はこうなったのであろうか
弱者保護を歌い、隣人愛を歌う。 それなのにその逆を嬉々として行う
宗教の、他に誇れる唯一の存在意義は、人を救う事であるのに
「心配するな、もう少しの辛抱だ、助けてやるさ」
ヴェルフはそう口の中で呟くと、その部屋を後にした
「あの人、助けてあげられますよね!」
フォロアがヴェルフを見上げて言うと、その頭に手を置き、ヴェルフは無言のまま宿に帰還した

魔女裁判。 後世の歴史家達より、しばしば史上最悪の蛮行と呼ばれる物の一つである
その残忍性は良く知られているが、なぜその様なことが行われるようになったかを知る者は少ない
と言うわけで、この場を借りてそれを説明しておこう
民衆を宗教的に洗脳する手段の一つに、悪魔や最終戦争と言った恐怖の捏造がある
この辺りには深い森が延々と広がり、栗鼠が木から降りずに大陸を横断できる、などと言われていた
教会の上層部はそれを利用した、森には恐ろしい悪魔や魔女が住んでおり
教会に忠誠を誓う者だけがその恐怖から逃れられ、魔手から救われると
実際当時は森の海の中に、小さな島のように街がある状態で、森も凶悪な獣達が住む魔境であった
従って教会の言う言葉は大きな説得力を持ち、権威は護られ、無条件に愚民達の忠誠を得たのである
だがしかし、時は流れ、文明は進歩し、人口は増加していった
森は切り開かれ、その奥の奥まで人は制覇し・・・そこには魔女も悪魔も居なかった
学者達の中には、教会の言うデタラメを論理的に打破する者も現れ、内部告発で腐敗も衆目に晒された
教会下層部は右往左往するばかりであった、純朴な下級神父達は自らが正しいのかを悩んだ
だが、上層部は違った。 元々彼らは神など信じていないし、愛しているのは権力と金だけだ
彼らは焦り、新たなる方策を考え始めた
このままではまずい。民衆が精神的奴隷でなくなれば、無条件に金が絞れなくなるのだ
下級神父達とは全く別の意味で彼らは悩み、そして彼ら風に言えば誰かが悪魔に魂を売った
彼らの誰であるかは知らないが、いずれかが「名案」を思いついたのである
不満分子を一掃し、そして民衆の精神的奴隷化を継続できる名案を
・・・すなわち、外に悪魔が居なければ、内側に創れば良いだけのことなのだ

それは正に万能の道具であった、中央教会が自分に都合の悪い者を悪魔、魔女と決めつけ
次々と酷い刑にかけて殺していくと、すぐにそれは地方に伝播していった
心ある者も怯え、中央教会に楯突けなくなった、また予想以上の成果も上がった
当時の地方都市は例外なく単調な閉鎖社会であり、恣意的リンチの意味もあり
心を病んだ者達には、絶好の見せ物であり、憂さ晴らしのショーであった
また愚民は目の前に現れた「悪魔」「魔女」に恐怖し、ますます中央教会に忠誠を誓っていったのである
一度味を占めた中央教会は成功心理に取り付かれ、次々と「魔女」「悪魔」を火炙りにしていったのだ
正に悪魔の所業であったろう、いや、本物の悪魔でさえ目を背けるに違いない
権力欲に取り付かれた腐敗の巣窟、権力のためにはいかなる事も行う
それが現在の教会上層部の実態であった。 人格者であった開祖が見たら大きな溜息をついただろう

3,崩壊する砂上の楼閣

日没後宿に戻ったヴェルフはさっさと食事を済ませ、部屋に引き上げていった
不愛想な彼の溝を埋めるような存在だったのが、フォロアであった
フォロアは持ち前の少し抜けた明るさで、すぐに宿の老夫婦と馴染み、せがまれて色々な話を披露した
ゾウを見たときの驚きや、ナイル川で見た巨大なワニ、東方の此方とは全く違う文明などである
閉鎖社会に住む老夫婦は喜んだ、フォロアは人が喜んでくれるのが何より楽しかった
夜は更けていき、やがて次の日がやってきた

鶏が朝を告げ、街の一日は始まった
照明がろくに整備されていないこの時代、一日は鶏の鳴き声と共に始まり、闇の到来と共に終わる
冬とは言え、農夫達には仕事もあり、宿の主人は客を起こすと斧を背負って森に出かけていった
フォロアは朝食を胃にかき込むと、昨晩聞いた靴屋に出かけていく、昼までに直す必要があったからだ
元気に手を振り駆けていくフォロアを見送ると、ヴェルフは読みかけの本を取りだしページをめくった
それは吟遊詩人の書いた平凡な物語で、勇者が魔王を倒し姫君を救い出すという下らない話であり
ただそれが美辞麗句に飾られ、延々と続くだけのつまらないものであり、暇つぶし用に過ぎなかった
いつの間にか起き出したメルが、脇から本を覗き込んでいた
ヴェルフは心なしかゆっくりページをめくり、メルはやがて活字世界に没頭していった

時間は流れるように過ぎていった
靴の修理は程なく終わり、フォロアは直った靴の感触を味わいつつ街を歩いていた
外では豚がキイキイ鳴きつつ屎尿を頬張り、その脇を子供達が駆けていく
変わらない光景である、この街は一体何百年前からこうなのであろうか
黒死病の反省さえも見られ無い、今でも時々伝染病が流行るのは当然であるのだ
ヴェルフはこの街のことをこう言う
進歩を拒否した文明の、歪んだ産物
一握りの人間の、権力欲のせいでこうなっていると判っている者は、恐らく一人も居るまい
無邪気で愚かで、教会と領主にとっての都合のいい家畜
そうヴェルフは断言し、客観的に見てそれは完全に事実であった
だがフォロアは、そこまで冷徹に言い切ることは出来なかった
度々ヴェルフに言われ、真実を幾つも見せられてきたが、それでもフォロアにとって人間は尊かった
例え自分が子供の頃に奴隷として実の親に売り飛ばされ、「物を言う道具」として酷使され
幾度も生死の境をさまよい、そして全身に消えない鞭の痕が残されているとしても
その後にヴェルフが自分に示してくれた愛情は本物であったし、人が皆そうなれると信じていた
街路を少し急ぎ足で、フォロアは宿に向かっていた、微妙な視線を感じていたからである
その視線には殺気が籠もっていた、そんな相手とは関わり合いになりたくないものだ
視線の正体は、先日の兵士であった、あの愚か者は復讐を狙っていたのだ

フォロアが宿に帰り着いてからほぼ正確に二時間後、太陽が軌道の最高点を通過した
ヴェルフは本をメルに渡すと、ガウンを羽織って外に出、フォロアがそれに続いた
広場は見物人に埋まっていた、血に飢えた吸血鬼共だ
彼らにとっては絞首刑にしろ火あぶりにしろ、面白い見せ物以外の何者でも無いのだ
無邪気は時に、残忍な面を併せ持つのが普通である
粗末な法廷であった、衰弱しきった被告が腐りかかった椅子に座らされ
壇上にはあの神父がけばけばしい正装で木像のごとくふんぞり返り、辺りを見回している
ヴェルフは弁護人席を要求し、神父はヴェルフ用に小さな椅子を持ってこさせた
その椅子は立て付けが悪くグラグラと揺れ、観客はそれを見て失笑しだした
それに座ったヴェルフが、壊れた椅子もろとも転ぶ様を想像したに違いあるまい
だがヴェルフは予想を裏切った、フォロアに釘と金槌を持ってこさせると、椅子を
直してしまったのだ
十分もかからない早業であり、本職の大工が目を見張る手際であった
神父が薄い頬をひくつかせ、口の中で何かをののしった、ヴェルフはそれを冷たく見ていた
フォロアが助手用の席として小さな椅子を宿から借りてきて座り、間もなく裁判は始まった

文字通りの茶番劇であった、裁判長は神父が務め、見習いがその助手を務めた
見習い僧はやたらがっしりした大男であり、良く響く低音で裁判を歌い上げていった
曰く、当教会はこの娘ライザ=クロイツェンを魔女として告発する。 その証拠と罪状は以下の通り
何でも、ライザが通った道にあった草が枯れ、近くを通られた馬が不意にいななき
いつもは卵を五つ産むレムレ家の雌鶏達が、ライザが来た翌日には四つしか卵を産まなかった等々
余所から見ればくだらなさを通り越して呆れるような代物が、数十も羅列されていった
馬鹿馬鹿しい話だが、世界中の何処を問わず閉鎖社会では、こういう戯言が充分な説得力を持つ
精神的支配者である「神父様」が言うだけで、それはすぐ「真実」へと変貌をとげるのだ
そして最後の方になって教会の威光を汚し、悪魔に魂を売ったとか言う物騒な罪状が告発された
これは魔女裁判で定番の罪である、誰か見たのかな、とヴェルフは心中毒づく
「・・・以上により当法廷はこの女を魔女として告発する物である、その罪状は明白であり・・・」
「異議あり」
ヴェルフが手を挙げ言う、メモを取っていたフォロアの手が一瞬止まる
「当法廷を侮辱する気か!」
神父が喚いた、ヴェルフは腕を組んだまま立ち上がり、被告の側まで歩いていく
被告の座る小さな椅子、その小さな背に手をおき、再び発言した
「先ず、原告側の挙げた証拠と称する物だが、これは確かに魔女も行うかも知れない」
ヴェルフはそこで一旦言葉を切り、フォロアがメモをきちんと取っているのを確認し、そして続けた
「だが、同時に自然現象としても何ら問題の無い物ばかりだ
植物には寒波で枯れる物も多いし、馬は魔女でなくとも驚けば普通いななく。
その原因が被告とは考えにくい
また、悪魔と契約したとのことだが、被告はそれを断固として否定している
で或る以上、原告側には被告を魔女と断定する決定的な証拠を提出、或いは示していただきたい
それなくして、弁護側としては被告の無罪を主張する以外にない」
言葉は淀みなく流れ、観衆もその論理性に聞き入った
だが神父に驚く様子はない、むしろ勝ち誇った表情をしていた
愚かなこの男に、自分がヴェルフの掌で、安物の木偶人形の如く踊らされていると判るはずも無かった
「良かろう、主の力の偉大さにより、その魔女の正体をいぶり出して見せよう」
その言葉を聞くと、青ざめたライザから更に血の気が引いた、何をするか知っていたからだ
ヴェルフの方をライザは恨めしげに睨んだが、ヴェルフは腕を組んで自信満々であった

神父が持ってこさせたのは、燭台に点された火であった
蝋燭に油を混ぜているらしく、火は煌々と燃えさかっている
神父の説明によると、それは聖木を燃やして得られた聖なる炎を、浄められた蝋燭に移した聖火で
普通の者が触っても火傷しないが、悪魔や魔女が触るとたちどころに火傷するという
魔女裁判では、これに限らず多くのインチキが行われた。 何のことはない、これは正真正銘只の火だ
燃えさかる炎に触れれば火傷し、火傷をすればその者は魔女とされ、火あぶりにされるのだ
「どれ、では確かめさせてもらいますぞ」
そういうとヴェルフは素早く神父の手から燭台をもぎ取り、返せと喚く前に炎へ手を突っ込んだ
観衆からどよめきが起こった、火から出したヴェルフの手は全く火傷していなかったのだ
驚いたのは、これがインチキだと知っている神父と弟子共である
彼らは唖然とし、呆然としながら事の推移を見守っていたが、ヴェルフは全く構わない
ヴェルフは何人か観衆を呼び、次々と火に手を入れさせた
おっかなびっくりで手を突っ込んだ彼らは、神の偉大な力とか言う代物を堪能し、感動した
ライザも結果は同じで、その手は全く火傷していなかった、驚いた神父は慌ただしく槌を上下させた
「きょ、今日の法廷はここまで!」
「ちょっと待った、裁判長」
神父が身を堅くし、ヴェルフの言葉を待った、彼は勘が鋭い方で、ヴェルフの超常性を
感じ取っていた
言いしれぬ恐怖が全身を縛り、冬だというのに背筋から汗を噴き出させていた
「被告は非常に衰弱しており、弁護側としては健康問題上看過できない
よって付き添いを付けたいが、許可をえられぬかな?」
観衆の間から賛同の声が多数挙がったので、神父も従わざるを得なかった
「大丈夫、助けてやるよ」
驚くライザの方へ振り向き、ヴェルフは言った

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