4 ,愚劣なるエゴの発露

ヴェルフは冷たい石壁に背を預け、フォロアの事を待っていた
教会地下は冷たい石造りで、その一室、ライザを監禁するのに使用されていた部屋での事である
そこには幾つもの拷問道具が並び、しかもその全てに点々と血の跡が付いていた
ヴェルフは目をつぶり一言も発しようとせず、重い空気は更にその重みを、そして冷たさを増していた
「水牢に入れられなかっただけマシだったな」
初めてヴェルフが口を開いた、水牢というのは拷問の一種で、立っていないと溺れる深さに水を張りその中に罪人を入れる事により、自白させようと言う代物だ
ずっと立っていないといけないため、非常に辛い拷問であると言える
ライザは沈黙したままであり、ヴェルフは更に続けた
「それにしても良く今日まで耐えた、大した物だ」
「・・・何故、こんな事をしてくれるの? さっきの火は一体どうやったの?
・・・・・・・貴方は一体、何者なのよ・・」
ヴェルフがそれに答えようとした時、扉が開き、フォロアが部屋に入ってきた

フォロアは手袋をしてまだ熱いスープ鍋を持ち、小さなリュックを背負っていた
それから小さな皿を二枚とスプーン、おたまを取り出す、宿から借りてきた物である
二人分の皿にスープを盛るフォロアを見ながら、ヴェルフが言う
「フォロア」
「あ、何ですか、ヴェルフ様」
「後はお前に任せる。 ワシは宿に戻って居るぞ
メルを一人にして置くわけにはいかんからな」
ヴェルフは扉を開けつつ思いだし、鍵束をフォロアの方へ投げつつ付け加えた
「油断するなよ、何が起こるかわからんからな」
フォロアは虚を突かれた表情をしていた、扉が重い音を立てて閉まったときも同じ表情
であった
しかし程なくヴェルフが自らに託した役目を悟り、実行に移ることにした

ライザは無心にスープを啜っていた、スープは熱く、胃に染みわたった
ここ一月ろくな食事をとっていなかったライザに取り、天の恵みにも等しかった
「はい、まだあります。 遠慮しないで下さいね」
すぐ空になった皿に、フォロアは再びスープを盛りつけた
下品な表現ながら、ライザはそれを胃にかき込んだ、空腹が上品に食べることを不可能
としていた
「ありがとう、生き返ったわ」
ライザが礼を言ったのは、四杯のスープを完全に平らげてからであり、気付いて
照れくさそうに言った
それを見届けてから、フォロアは自分の食事を始めた、それを見ながらライザは続ける
「あたしはライザ=クロイツェン。 助けてくれて感謝するわ」
「えっと、私はフォロア=ウォルフです
・・・感謝はヴェルフ様にして下さい」
様という言葉が、絶対的な支配者に対する物のそれではなく
尊敬以上の感情がこもった物だと、ライザは気付いたであろうか
「・・・貴方はいいとしても、あのおっさんは何者なの?
何故あんな冷たそうな人が、あたしを助けてくれたの?
・・・あんな人、今まであったことも無かったのに」
ライザの言葉を聞くと、フォロアはスプーンを止めた、少々ムッとしていたかもしれない
「私はヴェルフ様と五年も旅してますが、私にとても良くしてくれますし、気難しいメルも懐いてます・・・そんな言い方は止めて下さい」
「ごめんなさい、そんなつもりじゃ・・・」
「いいんです、あの人は他人にはとても冷たい人ですから
正直言って、あの人が何者なのかは、私にも分からないんです
・・・もちろん、何で助けたかも・・・役に立てなくて御免なさいね」
フォロアは頭をかきながら舌を出して笑った、場の空気が優しく和んだようであった
ヴェルフが強烈な負であるのに対し、フォロアは居るだけで空気を和ませる、正反対の存在であった

冷たい風が吹く街路を、ヴェルフは一人歩いていた
風に巻かれてマフラーがたなびく、ヴェルフは左ポケットから手袋を出して両手にはめ、頬に当てた
去年の誕生日に、フォロアが送ってくれた毛糸の手袋である
編み方を教えたのはヴェルフである、不器用なフォロアが編んだ手袋は歪であったが
しかし、形状を気にしないで済むだけの、何とも言えない優しい温かさに満ちていた
不快そうにヴェルフは溜息をついた、もちろん手袋が気にくわない訳ではない
「出てこい、そこに居るんだろう、それで隠れているつもりか」
「良くわかったじゃねえか、弁護士先生よ」
木立の影から抜剣した兵士が現れた、先日のゴロツキ兵士であった
ヴェルフは右ポケットに手を突っ込むと、一歩二歩と進んでみせる
兵士は不快そうに一歩下がったが、すぐに立ち直ってすごんだ
「よくもこのブルーテ様に恥をかかせてくれたな・・・斬り殺してやるぜ」
「ほう、それは恐ろしいな」
「殺して街の外に捨てれば、後は野犬共が綺麗に片づけてくれる、ばれやしねえさ
その後でてめえの連れも同じ目に遭わせてやる・・・おまけつきでな!」
ひひひと笑って、ブルーテは舌なめずりした、おまけが何のことかは誰の目にも明らかであった
この口調から言って前科があるのは間違いないだろう、救い用のない屑であった
ヴェルフはこの男を殺すことに決めたが、その前に更なる恥をかかせることにした
「死・・・ぎゃあああああ!」
剣を振り上げたブルーテの手を、ナイフが木に縫い付けていた
草木でさえ顔を赤らめ、その場から逃げたくなるような、何とも無様極まる悲鳴であった
寝ていた、あるいは寝た振りをしていた住民達が起き出してきた、そしてすぐに事態を悟った
警備兵の隊長も現れ、何事かとヴェルフに訪ねた
「この街では、兵士に丸腰の相手を闇討ちするよう教育しているのか?」
それとも、丸腰の相手を、しかも不意打ちでないと怖くて決闘も出来ないのかな」
兵長はブルーテへの憎悪と屈辱に青ざめた、前にも似たようなことがあったのだろう
ヴェルフは更に数本のナイフをポケットから取りだし、ジャグリングしながらブルーテに投げつけた
一本は頭のすぐ上に、一本は左手を木に縫いつけ、もう一本は右耳の下半分を削ぎ落とした
ブルーテは恐怖のあまり泣き出し、失禁した。 周囲から笑い声が漏れた
何時も周りに恐怖と暴力を振りまく男の、口ほどにもない哀れな姿であった、完全に自業自得である
ヴェルフの肉体能力は常人と変わらない、それがこんな神業を使えたには訳があったが
その様なこと、別に語るほどの事でもない
「そろそろ助けてやれ」
兵長が忌々しげに命令すると、泣きわめくブルーテがようやく木から開放された
そのままヴェルフは宿に帰っていった、何人かはヴェルフに心中で拍手を送った

翌日の朝、ヴェルフが地下室を訪れると、フォロアは昨日ヴェルフが持ち込んだ毛布にくるまり
壁にもたれて、うつらうつらと眠っていた。 サーベルを抱え込み侵入者に備えながら
すぐ脇には今までろくに眠ることさえ許されなかったライザが、泥のように眠っていた
ヴェルフはわざと殺気を、僅かにだけ出して見せた
弾かれるようにフォロアは飛び起き、抜刀して扉の方へ刃先を向け、そして降ろした
「良し、良くできた。 腕を上げたじゃないか」
「おはよーございます、ヴェルフ様・・・何のようれふか?」
口に手を当てフォロアは大きく欠伸をした、更に伸びをして目をこする
フォロアは、心からヴェルフを信頼しているのだ
「ちょっと外に来い、話がある」

「さてと、あの娘から事情は聞き出せたか?」
扉を閉めヴェルフが言うと、フォロアは頷き愛用のメモ帳を取りだした
フォロアはメモが細かく、大きめのメモ帳もすぐ埋まってしまう、今年は既に三冊目であった
フォロアが自分の任せた役目を把握していたので、ヴェルフは微笑んだ
フォロアは客観的にまとめた説明を始めた
・・・それは平凡な、身分を変えれば童話にでも出てきそうな話であった
平凡な家に生まれたライザ=クロイツェンはそこそこの美人で、そこそこにもてた
少々気が強く、旅人に教わった東洋の格闘技を習得していたが、それ以外は普通の小娘であった
そして普通に恋に落ち、普通に婚約した
相手は学者見習いの若者で、正義感の強い典型的な若者であった
男は大学に行くと決め、二年後に帰ると約束して街を出、四年経っても帰らなかった
理由は不明であったが死んだ訳では無いようで、それがかえって混乱を招いた
独り身になったライザに目を付けたのが、領主の長男であるレイズェルであった
こいつは典型的な箱入りバカ息子で、子供の頃から質の悪い取り巻き共と悪事を重ねていた
いわゆる札付きの悪であった、領主は普通の行政手腕を持っていたが子供に感心が無く
放逐していた結果こうなったのである、領主失格と言えるだろう
情操教育等という物を受けていない此奴に、自制などと言う高等な感情はない
欲しい物は絶対に手に入れられなければならない、しかも無条件で、のだ
レイズェルはライザを口説いて自分の物にしようとしたが、相手にもされなかった
レイズェルはヒステリーを起こし、衆目でライザを手込めにしようとしたが、相手が悪すぎた
東方武術を趣味から実用レベルまで高めていたライザに、力があるだけのデブが勝てるはずもなかった
逆に叩きのめされて大恥をかいたレイズェルは、無い脳味噌を絞った挙げ句
ライザを魔女裁判にかけるという、最も残忍な復讐を選んだのである・・・

「そんな事だろうと思っていたがな」
「ひどい話です! これじゃあライザさんが可哀想すぎますっ!」
フォロアの声は大きかった、後ろで何かを運んでいた見習い僧が此方を見たが
すぐにしらぬふりをして通り過ぎていった、構う暇が無かったのも事実であった
それは大きな、大人五人掛かりでやっと運べる釜であった、その後ろに薪を持った見習い僧が続く
「ほお、最終手段に出るつもりか・・・面白い」
「最終手段?」
「口封じと自分の正当性をでっち上げる、最高の方法を使う気になったんだろうよ」
ヴェルフはその内容を知っており、それを破ればこちらの完全勝利になることも知っていた
「人工蘇生の方法は覚えてるな」
フォロアが頷くと、ヴェルフは満足そうに微笑んだ

5,茶番の終幕

中央広場では、昨日以上の人だかりが既に出来ていた
本当なら本日、この連中が楽しみにしている、火あぶりの刑が行われる予定だったのだ
被告が無実を叫びながら焼き殺されるのを楽しむ、この連中にとってはそれが何よりの楽しみであった
だからまだ裁判が続いていることが判明すると、不満の声を上げる者が多かった
単調な閉鎖社会では、日々の生活も単調な物だ、だから変化には喜んで飛びつく
例えそれが極端に残酷な物であっても同じ事であり、人間の本質を如実に表していると言えよう
「どうせ魔女なんだ、とっとと焼き殺せ!」
ヴェルフがフォロアとライザを連れて現れると、誰かが罵声を挙げた、何人かが賛同の声を上げる
彼らには残酷な言葉を浴びせている自覚は無く、ただ血と悲鳴が見たくてウズウズしているのだ
フォロアがその男を睨み付けて唇を噛んだ、ヴェルフはその頭に手を置いて言った
「他人の生き血を啜らないと生きていけないヴァンパイアなど、放って置け
いちいち怒るのも馬鹿馬鹿しいわ」
あやつらが吸血鬼なら、人類の半数以上は吸血鬼だな、とヴェルフは考えた
残りはさしずめ、腐肉を漁るグールであろうか、そう大差あるまい
その様なことを考えつつ、用意された、昨日自分で修復した椅子に座った
被告が席に着くと、観衆の視線はそこへと集中した
神父が槌で机を叩き、裁判の開始を宣言した

「今日は偉大なる主の力により、魔女を裁く・・・」
「ふん、くだらん。 さっさと始めろ」
ヴェルフが口の中で毒づく。 神父はその唇の動きに気付いたようで表情をゆがめたが
気付かない振りをして、裁判を進めていった
「あれに見える釜は、主の御加護を受けた聖なる釜である
今より聖水を見たし、聖木でそれを炊き温める
人肌ほどの熱さになったところで被告の手足を縛り、中へ沈める」
驚いてフォロアが顔を上げる、魔女裁判の残忍さは各地で幾度も目にしていた
だがしかし、幾ら何でも此処までの無茶苦茶をやるとは知らなかったのだ
「主は全てをお見通しである! 
被告がもし浮かべば、その時は主が被告を魔女だと宣告なされた時で有り
もしこの砂時計の砂が落ちきるまで沈んでいれば
主が被告の無実を証明して下さったと言うことになる!」
机上の砂時計は大きかった、砂が落ちきるまで軽く五分はかかるだろう
フォロアは膝の上で、血が出るほど強く拳を握り、唇を噛んでいた
浮力が減るお湯であっても、殆どの被告は浮かぶ
また、もし五分間沈んでいたとしても、余程鍛錬された者でなければ息が続かない
浮かんでくれば嬉々として火あぶり、沈んだままなら死人に口無し、正に万能の方法であった
此処までひどいインチキを堂々と行える人間の、面の皮は一体どれほどの厚さなのか見当も付かない
「最終手段・・・なんですね・・・本当に・・・」
フォロアが頭を抱えて呟いた、ヴェルフは腕を組んで推移を見守り、その顔に焦りはない
「要するに、砂時計が落ちきるまで沈んでいれば無罪、そう言うことですな裁判長」
「そう言う事だ」
「前言を翻さないように、後ろには証人が幾らでも居ますからな」
神父が指を鳴らすと、手足を縛られたライザが釜の方へ運ばれていった
神父は不安であった、この手なら絶対に大丈夫のはずであったが、何かが不安であった
彼は怖かった、平穏な生活が破壊されることが
その日常がどう維持されていても、弱者を公権力で集団リンチして保たれていたとしても
神父にとっては権威が維持され、その状態が持続していくことが何より大事であった
湯が沸き、静かにライザが釜の中に入れられていった

時間が、異常にゆっくりと経過していった
ライザは湯に入れられた途端に沈み、以降浮かんでくることは無かった
砂時計はゆっくりと、そうとてもゆっくりと砂を落とし続けている
「落ち着けフォロア、もう少しだ」
落ち着かないフォロアに、ヴェルフは釘を差した
フォロアは全身に冷や汗をかき、所在なげなに辺りを見回していた、観衆がどよめき始める
時計の砂が半分を切り、積もった砂が残った砂を圧倒していく、神父も超常的な力を感じ焦りだした
ヴェルフは目をつぶり、腕を組んで微動だにしない。 時はゆっくりと、だが確実に歩を進めていく
そして、砂が全て落ちきった
それを神父に確認して後、ヴェルフが叫んだ
「よし!砂時計は終わった! 走れフォロア!」
フォロアが椅子を蹴り、釜へ走る
衣服が濡れるのもいとわずに、ライザを引き上げる、熱いお湯が飛び散る、そして火が消える
手足を拘束していたロープを切る、ぐったりしたライザに馬乗りになる
胸に手を当て、手を重ね、二度、そして三度、力とリズムを込めて押す
「ライザさん!しっかり、しっかりして!」
七度目の心臓マッサージで変化が生じた、ライザの身体が反り、大きくむせたのだ
心臓マッサージが効果を現し、死の淵から引き上げたのだ
激しく咳き込むライザ、肺に少量の水が入ったのだろう
「馬鹿な・・・こんな馬鹿な・・・」
神父がうめくと、それを見た観衆の何人かが怪訝そうな表情を見せた
「見よ! これこそ主の力だ! 主はこの娘を無実と認めたぞ!」
ヴェルフが右手を振り上げ言うと、聴衆は皆納得し、喚声を上げた
もはや神父に為す術はなく、さっきまで狂気の殺人劇を期待していた者どももそれをすっかり忘れ
「主」の起こした「奇跡」とか言うモノに酔い、喚声を上げていた
後ろで見ていたレイズェルが何か喚いて部下を殴りつけ、屋敷の方へ戻っていった
ヴェルフはその言葉を聞き取り、そしてほくそ笑んだ
「あのオヤジのせいだ! くそ、てめえら仲間を集めてこい! これから殺してやる!」
いつの間にか、ヴェルフの後ろにメルが立っていた
「父さん、お腹すいた」
ヴェルフはその頭をなぜ、フォロアとライザへ向け言った
「よし、この街を発つぞ、自分の荷物をまとめてこい
ライザ、お主はどうする」
「貴方達に付いていきます・・・もうこの街に居場所はありませんから」
ライザの両親は既に街をでていた、この街にいたらおそらく一緒に火あぶりにされていただろう
「そうか・・・よし」
ヴェルフは馬を引き出すと、宿の老夫婦に挨拶に行った
服を濡らしてしまった娘二人が奥で着替える間、ヴェルフは老夫婦に礼を言っていた
「世話になったな。 フォロアの話し相手になってくれ、メルの世話をしてくれ感謝している」
「いえ、そのような事は・・・
あの子の話はとても面白くて、もう少し居て下されても良かったのに・・・」
ヴェルフは皮肉に笑った、魔女裁判が無ければ、それも可能であったろう
ヴェルフは魔女裁判を憎み、それを産みだした愚か者達を更に憎んでいた
今までヴェルフは黙認することにしていたが、今回とうとう堪忍袋の緒が切れた
魔女裁判に気付いたとき、その心は既に灼熱の溶岩に満たされていたのだ
「もうすぐレイズェルの豚野郎が此処に来る。 そうしたらワシらが出ていったことを正直に言え
下手な怪我をしたらつまらぬからな」
ヴェルフの超常性に気付いていた老夫婦は頷いた、出てきた二人と合流し、ヴェルフは街を出て行った。

7,もう一つの戦い

フォロアは小走りで、薄暗く寒い森の中を走っていた、後ろで悲鳴が聞こえたような気がした
「・・・。」
フォロアは目をつぶった、ヴェルフが兵士達に何をするか見当はついていた、だから悲しかった
馬が足を止めた、気付くと周囲に殺気が充満していた
雪を被った茂みを掻き分け、それは後方から無数に現れた
「狼?」
「違います、野犬です」
フォロアは抜剣し、馬の首を軽く叩いた、歩き出せと言う指示だ
ヴェルフかメルがいれば百頭でも二百頭でも追い払えるが、今は自分一人しかいない
ヴェルフが信頼を寄せてくれている証拠だが、それに答えねばならない時が来たようだ
「狼よりは安全じゃないの?」
「・・・百倍は危険です、私が合図したら走って下さい!」
フォロアが、包囲を徐々に狭めつつある野犬を睨み付けつつ言った、その数およそ30。
狼が人間を襲うという事は、物語、それも西欧の狼を曲解した物語の中でしかほぼあり得ない
それに対し、野犬が人間を襲う事は歴とした真実で、幾らでも実例がある
その原因は、彼らが人間に対して禁忌を持たない事である
狼は野生動物であり、それが故人間に禁忌を持つ、賢い彼らは人間の報復の恐ろしさを知っているのだ
それに対して、野犬は人間に禁忌を持たない、人間に遺伝子的に改造され
共に暮らしてきた彼らは、人間に対する恐怖を持たない
それが故その手を一度離れれば、人間は他の動物と同じ存在、つまりは餌となるのだ
身体が狼より二周り以上も小さいのに、野犬の方が数倍も危険なのはそう言う理由からである
余程餌が欠乏しない限り、狼は自分から人間や家畜を襲うことはないが、野犬は違うのだ
後で分かることだが、去年隣町では疫病が大量発生し、百人以上が死んだ
墓に入りきらなかった死体を外に捨てた所、それを餌にした野犬が大量に増えたのだ
しかし今年は疫病が流行らず、餌が欠乏した野犬は旅人を無差別に襲うようになったのであった
彼らの腹は、背中にくっつくほど引っ込んでいた、餌を逃がす気は絶対にないだろう
「走って!」
フォロアが叫び、自らも駆け出し、同時に野犬の群もハンティングを開始した
わざと速度を落としたフォロアに、浅はかな一匹が襲いかかった
飛びかかった野犬は頭部を一瞬で切断され、地面に転がり、痙攣して息絶える
突きではなく斬撃でである。 腕が余程良くないと、斬撃をもって相手を一瞬で倒すのは不可能に近い
更に一匹が飛びつこうとしてその後を追うと、野犬達の追撃速度が鈍った
フォロアは後ろを見なかった、何がおきているか経験的に知っているからである
見たくもない冷厳な事実であったが、本当は直視せねばならない光景であったろう
後ろでおきていたのは、血なまぐさくかつ凄絶な光景であった
命を失ったかっての仲間に野犬達が群がり、肉を貪り食っていたのだ、食欲と習性の命ずままに
さらに野犬の追撃は続く、一匹が急所である足首を狙って飛びつくが
フォロアは急に進路をずらし、サーベルを振り下ろした、悲鳴が響き地面に野犬がもう一匹転がる
突然前を走るライザの速度が鈍った、馬が足を止めようとしている
フォロアはすぐにその理由を悟り、周りを見て状況を分析し、そして叫んだ
「左です! 岩山の方へ走って!」
前方にて待ち伏せしていた群がいたのだ、その数およそ二十頭
それを避けるようにライザの乗馬は進路を左に変え、追おうとした野犬達にフォロアは突っ込んだ
数匹が斬り倒され、慌てて飛びずさって距離を取る野犬達、ライザと馬は標的から外れた
後ろからは本隊が迫り、死者は早速生者の御馳走へと変貌していた
フォロアの髪や顔には栄養が欠乏した返り血が飛び、息づかいも乱れ始めている
交渉の余地がない以上戦うしかないが、フォロアに取って辛い事であった
戦いは出来れば避けたいのに、その戦いをもって無数の命を奪わねばならないのだから
野犬達は驚くべき行動に出た敵に戸惑った、フォロアは本隊へ突っ込んでいったのだ
数匹が悲鳴と共に宙へ舞い、あっさり中央部の突破を許してしまった本隊
戦いでは常に相手の意表と不意をつけ、ヴェルフに言われていた事をフォロアは完璧に実行していた
そのまま時計回りに迂回し、ライザの後を追って走るフォロアに、体勢を整えた野犬の群が追いすがる

岩山は上空より平面的に見れば、ほぼ正確なU字型をしており
ライザは馬を駆って、その窪みの部分へ逃げ込んだ、逃げ込まざるを得なかった
フォロアはすぐに追いつき、野犬達は周囲に伏せていた兵力をかき集めて迫ってくる、その数70以上
「どうしよう、もう逃げられないよ!」
「大丈夫、多方から一度に攻撃されない分ここが有利です!
・・・ヴェルフ様が来るまで位なら、何とか持ちこたえて見せます!」
フォロアはサーベルを振るって血と脂を落とすと、数倍にも膨れ上がった野犬の群を睨み付けた
牽制の意味も込めて、威圧的に言い放つ
「さあ、かかってきなさい! 簡単にはやられません!」
こういう相手には自分の力を誇示して見せることが有効であり、結果として殺戮を減らす事にもなる
フォロアの発する殺気は野犬達を圧倒したが、彼らは後ずさるだけで逃げようとしない
本能的に相手の実力は分かっていたが、引き下がるわけにはいかないのだ、巣で待つ子供達の為にも
しばらく攻防が続き、それが一段落すると一際大きい、狼と見まごうほどの巨体を持つ野犬が現れた
よく見ると狼ではないことが分かる事から、狼と大型犬の雑種である可能性が高い
その全身の向かい傷といい、圧倒的な迫力といい、群のボスはこ奴に間違いない
彼は若い野犬達をけしかけた。 年老いた連中は知恵を付け、獲物が弱るまで動こうとしないからだ
若い野犬が数匹、自信と野望に満ち、じりじりと間合いを詰めていく
敏捷な一匹が動く、巧みなフェイントでフォロアの喉をがら空きにし、食いつこうと飛びかかる
だがフォロアの方が上手であった、計算され尽くした横殴りの一撃をあび、吹き飛んで絶命する野犬
体勢が整わない内に、さらに二匹が、左右から同時に襲いかかった
二匹とも先よりスピードが大分見劣りし、楽勝かと思われたが、フォロアは思わぬ貧乏くじを引いた
右の一匹を斬った時、サーベルの刃が岩をこすり、左に対応するのが遅れたのだ
左の野犬はかなりの大型犬で、とっさに振り上げた左手に音を立てて食らいついた
鮮血が飛び散るが、フォロアは眉一つ動かさずに、冷静にサーベルで相手の喉頚を刺し貫く
脳を貫通された野犬は一声うめくと地面に転がり、二度と立ち上がることは無かった
傷は予想以上に深かった。 大きな血管が噛み裂かれたらしく、鮮血が傷口から滴り落ちた
血は止まるどころか指先より地面に垂れ落ちる、左手はもう戦闘の役には立たない
好機と見て更に一匹が襲いかかる、フォロアは下を向いていたし、勝てると思ったのだろう
だが、大きく飛んで空中から襲いかかったその野犬は敗北した
攻撃を一重でかわされ、更に背中に致命傷を受け地面に転がり、死んだ
年を取った連中が動き出したのは、相手が弱りだしたのを感じたからである
獲物の一番良い肉を、若い者に独占させてやる理由などない
「フォロアちゃん!」
「来ては駄目です! さがって!」
駆け寄ろうとしたライザを、後ろも見ずフォロアは突き放した
叫んだのは、意識の混濁を振り払うためであったかもしれない
膝を突いた。 出血が動きを鈍らせ、知らずの内にフォロアは右膝を突いていたのだ
隙を見て一匹が飛びかかったが、彼は愚かにも油断していた
フォロアは反応した、立ち上がり、完全に油断していたその野犬の耳の間に強烈な一撃を撃ち込んだ
ひとたまりもなく、悲鳴すら上げずに倒れる野犬を、フォロアは半ば無視しているように見えた
フォロアは既に周りを見て居らず、殺気にだけ反応したのであった
一匹が駆け寄っても、半ば無視しているように見えた
その一匹は死んだ仲間を引きずっていき、飢えた仲間達と御馳走を奪い合った
再びフォロアが膝を突く、今度は両膝であった、勝利を確信したボスが周囲に喝を入れて動き出した
後ろでふるえるライザと馬は眼中にない、フォロアにのみボスの興味は向いていた
ボスはフォロアに感謝していた。 美味しい肉をくれ、役立たず共を間引いてくれたのだから
ボスは悠然と、かつ傲然と恩人に向けにじり寄っていった、一番良い肉はボスが独占すべきであった

フォロアの混濁した意識の中で、過去が交錯していた
幼児期のことは、余り記憶に残っていない
子供嫌いの父と、同じく子供嫌いであった母。
フォロアを可愛がってくれたのは、神父をしていた叔父だけであった
七歳までは人口に数えないこの時代、一般的に子供へ対する愛情は全世界共通して薄い
死んでもまた産めばよい物であるし、特に女の子は商品でもある
五歳になったとき、フォロアは養子という名目で奴隷として売り飛ばされた
父の酒代と母の洋服代の為であり、彼らは何の良心の呵責も覚えなかったようだ
子供はまだ三人もいたし、生活費が足りなくなったというのも事実であった
・・西欧が男女平等だの人権だのと言い出したのは、現代に入ってからだと言う事を忘れてはならない
フォロアは山間の小さな村に買われ、文字通り「物を言う道具」として酷使された
危険な仕事は全て押しつけられ、ぼろを着せられ、憂さ晴らしに鞭でぶたれた
その痕は全身に残っている、恐らく死ぬまで消えないだろう
生死の境を彷徨ったことなど一度や二度ではない
だが泥水を啜り、雑草を噛み、フォロアは生き延びる事が出来た
思えば身体が人一倍丈夫であった上、精神力にも恵まれていたのだろう
そして四年が過ぎ、ヴェルフが現れた

ヴェルフはその村で流行っていた疫病を簡単に処理し、村人に歓待されていた
村長が僅かな金子を礼として示したが、ヴェルフはあっさり拒否し、代わりにフォロアを要求した
村長はその金額の十分の一でフォロアを買ったので、喜んで応じた
止まっている間、真心を込めて色々身辺の世話をしてくれたフォロアを、不便に感じたのであろうか
いや、違う。 そもそもヴェルフは奴隷に反対意見であったのだ
「今日からお前はワシの弟子であり、もう奴隷ではない
鞭で撲たれることも、卑屈になる事もない。 お前は自由だ、フォロア」
ヴェルフはそう言いつつ、フォロアの頭を撫でた
それからヴェルフはフォロアに読み書き、数学、歴史学、政治学などを旅の間に教え
実戦戦術と戦略判断法、それに剣技を教えた上で世の中を見せてくれた
ヴェルフは何時も、危ないときに助けに来てくれた、危機を感じ取ったように
十歳の時、子馬と谷に落ちた時も、翌年人さらいに捕まりそうになった時も
厳しい男ではあったが、フォロアはヴェルフを心の底から信頼していた
今回もきっと・・・・

フォロアは我に返った、視力は低下していたが、ゆっくりとボスが迫ってきているのは見えた
フォロアは野犬を憎んでも恨んでもいない、殺されても恨む資格は無いと思っている
もう抵抗する力はない。後はせめてライザや馬が生き延びてくれることを願うばかりであった
自分が餌になっている間にヴェルフが来れば、ひょっとしたら助かるかも知れない
風が荒れ狂った、ボスはそれに気付かず飛びかかり、光の矢に撃たれて絶命した
野犬達が宙を見上げ、悲鳴を上げて逃げまどう
地響きを立て、彼らが見たこともない怪物が天空より降り立った
数匹が下敷きとなり、不幸な最期をとげた、もちろん怪物はドラゴン・メルであった
ライトやレフトが首を振り、野犬を数匹同時にくわえ、胃に放り込んだ
まだ食欲は完全に満たされたわけではなく、ミドルももちろん負けてはいなかった
とうとう野犬の群は這々の体で逃げ出した、その数は二時間前の二割にも満たなかった
だが彼らの腹は例外なく肉で満たされ、子供達に餌を与えることが出来るだろう
数も正常なレベルに戻り、無理なく冬を越せることであろう
ヴェルフが降りると、メルも人間の少女へ戻った
二人は、安心したのか前のめりに倒れ込んだフォロアに駆け寄った
「良くやった、期待に応えてくれ嬉しいぞフォロア」
「・・・追っ手の人たちは・・・・・・・」
ヴェルフの手から淡い光が出、フォロアの全身を包み、傷が回復し体力が戻っていった
ヴェルフは質問に答えず、代わりにメルが小さくげっぷをした。 それが明確な答えであった
フォロアには、それしか手がないことも、最善の方法であることも分かっていた
だがしかし、心のどこかで理性がそれを否定していた
「立てるか?」
フォロアは頷くと、埃を払って立ち上がった、ヴェルフの魔法は恐るべき効果で、すぐ走れそうだった
フォロアにこの時、甘えるという発想はない、ぬるま湯に使って生きて来たわけではない
フォロアに、ヴェルフの行動を批判する事は出来ない、生きるために暴力を使ったからだ
もちろん否定もできない、ヴェルフの行動は論理的にも最善の方法であったからだ
だが、もっと穏便な手をとって欲しかったのも事実であった
「ヴェルフ様、助けてくれてありがとう
でも・・・・」
「何も言うな、ワシにはこういう生き方しかできん」
反論を封じると、ヴェルフはメルを促し先へ歩き出した、最早何を見ても驚かない
ライザが続く
フォロアは信じていた、いつかヴェルフが自分の考えを分かってくれることを
「さて、次の街を越せば海だ。 レイフォードに会うのは久しぶりだな」
ヴェルフは振り向くと友人の名を口にした、今度の旅の原因である友人の名を
彼は崇高で誇り高い神父で、ヴェルフが唯一信を置く神父であった
レイフォードは港町ガルフェランに住んでいたが、そこはもう目と鼻の先である
「レイフォードさん、元気にしているといいですね」
フォロアの言葉を聞いているのかいないのか、ヴェルフは北の空をずっと見つめていた
                          (次回作へ続く)


管理人より一言 ☆

深き様有り難うございましたー。頂きもの第一作目です。。。
それにしても深き様の文章力というか表現力というかは
私にはとても追いつけないほど素晴らしいものですね★
これからもお世話になると思いますがよろしくお願いします。



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